2011年1月3日月曜日

弟洽三の死①「ポロリ、ポロリと死んでゆく」

死と向かい合わせの現実。ときにそれは私小説のように・・・

中也二十四歳、弟恰三の死(昭和6年)を悼んだとされる詩である。大正4年に死んだ次男の亜郎と重ね合わせて「みんな別れてしまふのだ。」と表現したのだろう。

九月八日の宵であつた。私はその夜の汽車で東京に向けて立つことにしてゐた。弟の寝てゐる蚊帳のそばにお膳を出して、私はそこで、グイグイと酒を飮んでゐた。・・・・・秋の日を受けた、弟の部屋の椽側は明るく、痩せ細つた足に足袋を穿いて、机に向つてゐる弟の姿が、庭の松の木や青空なぞと一憘に見えた。
 「あれが中日和といふものだつたのでせう」と母は、埋葬を終へた日の宵、私達四人の兄弟がゐる所で云つた。
 「中日和つて何」と、せきこんで末の弟は訊いた。
 「死ぬ前にたいがいその一寸前には、氣持のいい日があるものなんです。それを中日和。」

・・・・・私は同宿人のゐないことが、つまり六疊と三疊二間きりのその二階が私一人のものであることが、どんなに嬉しかつたか知れはしない。存分に悲しむために、私は寝臺にもぐつて、頭から毛布をヒッかぶつた。息がつまりさうであつた。が、それがなんであらう、私がビールを飮んでゐる時、弟は最期の苦しみを戰つてゐた!
(一九三三・一〇・一八)

さらに、長男中原文也の死後、赤インクによる加筆訂正がおこなわれた。 幼い愛児の死の悲しみを、深い喪失感を、「ポロリ、ポロリ」と表現した。

 恰三は、明治45年10月生れ、5歳年下の長男である。長男中也に医師になる意志も見込みもなく、次男亜郎は夭折していたので、中原病院を継ぐために医学を志した。幼時より剣道野球を好み、快活な性格であった。昭和5年4月、両親の期待に応えて日本医大予科に入学したが、恐らく受験勉強の過労の結果であろう、肺を悪くして帰郷する。急に病状が進んでこの年9月27日に死んだ。(中原中也全集解説「詩Ⅱ」大岡昇平)

ポロリ、ポロリと死んでゆく。
みんな別れてしまふのだ。
呼んだつて、帰らない。
なにしろ、此の世とあの世とだから叶はない。

今夜にして、僕はやつとこ覚るのだ、
白々しい自分であつたこと。
そしてもう、むやみやたらにやりきれぬ、
(あの世からでも、僕から奪へるものでもあつたら奪つてくれ)

それにしてもが過ぐる日は、なんと浮はついてゐたことだ。
あますなきみじめな気持である時も、
随分いい気でゐたもんだ。
(おまへの訃報に遇ふまでを、浮かれてゐたとはどうもはや。)

風が吹く、
あの世も風は吹いてるか?
熱にほてつたその頬に、風をうけ、
正直無比な目を以つて、
おまへは私に話したがつているのかも知れない……

——その夜、私は目を覚ます。
障子は破れ、風は吹き、
まるでこれでは戸外に寝ているも同然だ。

それでも僕はかまはない。
それでも僕はかまはない。
どうなつたつてかまはない。
なんで文句を云ふものか……

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