大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってからそんな風に思い出し度がるものだ。中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。たゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根っこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味のことを言い、そう固く信じていたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変った、と書いている。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。
小林秀雄『人生について』より
中原中也の歌
『含羞(はぢらひ)−我が友中原中也−』
曽根富美子さんのコミックです。
ぜひ、さがして読んでみてください。
2017年5月10日水曜日
長谷川泰子という女性
中原中也は永井叔の紹介で長谷川泰子という女性に出会う。泰子はマキノプロダクションの大部屋女優のひとりで、中也と同じ広島女学院付属幼稚園にいたという奇遇でした。
ところで,中原に初めて出会ったのは、京都の表現座という小劇団の稽古場でした。俳優志望の私は、とにもかくにも新劇をやりたくて、勘当同然の身で郷里の広島から東京へ出たのですが、上京して一ヵ月、関東大震災に会い、身の置き場もなく京都へ逃げのびて表現座の一員になっていました。たしか劇団員になって間もなくのある日、中原は知人を頼ってそこに現れたように思います。大正十三年でしたから、私が二十歳、中原はまだ中学生で私よりも三つ年下だから、十七歳でした。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)
中原中也「ぼくの部屋に来ていてもいいよ」
考えてみれば思い切った向こうみずなことだったかもしれません。でも他にどうすることもできない私は、その親切心だけを信じて、そこへ移るしかなかったのです。その当時、中原の下宿は、京都の北野大将軍西町にありました。そこで私たち二人の奇妙な共同生活が始まったわけです。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)
そのように小林が出入りしている間に、自然と私は、中原に内緒で小林と会うようになったのです。内緒といいながら私のほうには別にどうという感情もなかったのですが、「あなたは中原とは思想があい、ぼくとは気があうのだ」と言われると、やはり心にわだかまっていたものが明らかになったようです。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)
小林秀雄「一緒に住もう」
もともと好きでたまらなくて、中原と一緒に住んでいたんじゃありません。置いてやるというから、私はなんとなく同居人として住まわせてもらっていたんだから、中原と別れて行くときも、身につまされるものはありませんでした。(長谷川泰子「中原中也との愛―ゆきてかへらぬ」1974)
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらわしさを歎いてゐる、そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持をみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は頑(かたくな)なで、子供のやうに我儘だつた!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分からなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!
無題
中原中也
小林秀雄が去った後の泰子は、中也らが『白痴群』を創刊すると同人のように会に顔を出しました。同人誌には小林佐規子の名で散文詩を発表しています。泰子にしてみれば頼る当てもなく、また小林秀雄への未練があったのでしょう。
泰子は中也に会えば、主人面をして色々指図する中也に腹を立て、二人は取っ組み合いの喧嘩をしたといいます。
中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。(小林秀雄「中原中也の思い出」1949)
ところで,中原に初めて出会ったのは、京都の表現座という小劇団の稽古場でした。俳優志望の私は、とにもかくにも新劇をやりたくて、勘当同然の身で郷里の広島から東京へ出たのですが、上京して一ヵ月、関東大震災に会い、身の置き場もなく京都へ逃げのびて表現座の一員になっていました。たしか劇団員になって間もなくのある日、中原は知人を頼ってそこに現れたように思います。大正十三年でしたから、私が二十歳、中原はまだ中学生で私よりも三つ年下だから、十七歳でした。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)
中原中也「ぼくの部屋に来ていてもいいよ」
考えてみれば思い切った向こうみずなことだったかもしれません。でも他にどうすることもできない私は、その親切心だけを信じて、そこへ移るしかなかったのです。その当時、中原の下宿は、京都の北野大将軍西町にありました。そこで私たち二人の奇妙な共同生活が始まったわけです。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)
そのように小林が出入りしている間に、自然と私は、中原に内緒で小林と会うようになったのです。内緒といいながら私のほうには別にどうという感情もなかったのですが、「あなたは中原とは思想があい、ぼくとは気があうのだ」と言われると、やはり心にわだかまっていたものが明らかになったようです。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)
小林秀雄「一緒に住もう」
もともと好きでたまらなくて、中原と一緒に住んでいたんじゃありません。置いてやるというから、私はなんとなく同居人として住まわせてもらっていたんだから、中原と別れて行くときも、身につまされるものはありませんでした。(長谷川泰子「中原中也との愛―ゆきてかへらぬ」1974)
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
私は私のけがらわしさを歎いてゐる、そして
正体もなく、今茲(ここ)に告白をする、恥もなく、
品位もなく、かといって正直さもなく
私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
人の気持をみようとするやうなことはつひになく、
こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
私は頑(かたくな)なで、子供のやうに我儘だつた!
目が覚めて、宿酔(ふつかよい)の厭(いと)ふべき頭の中で、
戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
そしてもう、私はなんのことだか分からなく悲しく、
今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!
無題
中原中也
小林秀雄が去った後の泰子は、中也らが『白痴群』を創刊すると同人のように会に顔を出しました。同人誌には小林佐規子の名で散文詩を発表しています。泰子にしてみれば頼る当てもなく、また小林秀雄への未練があったのでしょう。
泰子は中也に会えば、主人面をして色々指図する中也に腹を立て、二人は取っ組み合いの喧嘩をしたといいます。
1930年12月、松竹キネマの女優となっていた泰子と演出家の山川幸世との間に子供がうまれ、中原中也が名付け親となります。山川が左翼運動で地下組織に潜ると、泰子は金の無心のために仕方なく中也の四谷花園アパートを訪れていましたが、中也は未練たらしく泰子の世話を焼くのでした。
中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。(小林秀雄「中原中也の思い出」1949)
2013年5月26日日曜日
神の子よ、おまへはなにをして来たのだと 吹き来る風が私に云ふ
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛 の巣が
心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍 の草影が
あどけない愁 みをする
これが私の故里 だ
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年増婦 の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ
縁の下では
心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路
あどけない
これが私の
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ
2011年7月7日木曜日
未刊詩篇 『ひからびた心』
ひからびたおれの心は
そこに小鳥がきて啼き
其処に小鳥が巣を作り
卵を生むに適していた
ひからびたおれの心は
小さなものの心の動きと
握ればつぶれてしまひさうなものの動きを
掌に感じてゐる必要があつた
ひからびたおれの心は
贅沢にもそのやうなものを要求し
贅沢にもそのやうなものを所持したために
小さきものにはまことすまないと思ふのであつた
ひからびたおれの心は
それゆゑに何はさて謙虚であり
小さきものをいとほしみいとほしみ
むしろそのぼうれい(暴戻)を快いこととするのであつた
そして私はえたいの知れない悲しみの日を味つたのだが
小さきものはやがて大きくなり
自分の幼時を忘れてしまひ
大きなものは次第に老いて
やがて死にゆくものであるから
季節は移りかはりゆくから
ひからびたおれの心は
ひからびた上にもひからびていつて
ひからびてひからびてひからびてひからびて
――いつそひわ(干割)れてしまへたら
無の中へ飛び行つて
そこで案外安楽の暮せるのかも知れぬと思つた
そこに小鳥がきて啼き
其処に小鳥が巣を作り
卵を生むに適していた
ひからびたおれの心は
小さなものの心の動きと
握ればつぶれてしまひさうなものの動きを
掌に感じてゐる必要があつた
ひからびたおれの心は
贅沢にもそのやうなものを要求し
贅沢にもそのやうなものを所持したために
小さきものにはまことすまないと思ふのであつた
ひからびたおれの心は
それゆゑに何はさて謙虚であり
小さきものをいとほしみいとほしみ
むしろそのぼうれい(暴戻)を快いこととするのであつた
そして私はえたいの知れない悲しみの日を味つたのだが
小さきものはやがて大きくなり
自分の幼時を忘れてしまひ
大きなものは次第に老いて
やがて死にゆくものであるから
季節は移りかはりゆくから
ひからびたおれの心は
ひからびた上にもひからびていつて
ひからびてひからびてひからびてひからびて
――いつそひわ(干割)れてしまへたら
無の中へ飛び行つて
そこで案外安楽の暮せるのかも知れぬと思つた
2011年1月14日金曜日
月夜の浜辺
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
この有名な詩も亡き愛児に捧げてつくられた。「月夜の晩に」は夜が明るく、照らされた海も静かであることを連想させる。そしてボタンが一つ落ちていた。月のかけらか、まん丸いボタンが。とすれば満月か。
拾ったボタンが文也のものならどうしよう。指先に、こころに深く感じるものがあれば、どうしてそれが、捨てられようか?
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
なぜだかそれを捨てるに忍びず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、ボタンが一つ
波打際に、落ちてゐた。
それを拾つて、役立てようと
僕は思つたわけでもないが
月に向つてそれは抛れず
浪に向つてそれは抛れず
僕はそれを、袂に入れた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
指先に沁み、心に沁みた。
月夜の晩に、拾つたボタンは
どうしてそれが、捨てられようか?
この有名な詩も亡き愛児に捧げてつくられた。「月夜の晩に」は夜が明るく、照らされた海も静かであることを連想させる。そしてボタンが一つ落ちていた。月のかけらか、まん丸いボタンが。とすれば満月か。
拾ったボタンが文也のものならどうしよう。指先に、こころに深く感じるものがあれば、どうしてそれが、捨てられようか?
2011年1月5日水曜日
亡き児文也の霊に捧ぐ「春日狂想」
29歳で長男文也を失った悲しみが、中原中也 晩年の傑作を産む。
抜粋
1
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業(げふ)が深くて、
なほもながららふことともなつたら、
奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。
抜粋
1
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業(げふ)が深くて、
なほもながららふことともなつたら、
奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。
亡き児文也の霊に捧ぐ「また来ん春……」
また来ん春と人は云ふ
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫といひ
鳥を見せても猫だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
しかし私は辛いのだ
春が来たつて何になろ
あの子が返つて来るぢやない
おもへば今年の五月には
おまへを抱いて動物園
象を見せても猫といひ
鳥を見せても猫だつた
最後に見せた鹿だけは
角によつぽど惹かれてか
何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は
此の世の光のたゞ中に
立つて眺めてゐたつけが……
亡き児文也の霊に捧ぐ「六月の雨」
昭和11年11月10日、長男・文也病没。
中也は詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託して死んだ。昭和12年10月22日、享年30歳。小林は友として翌年これを刊行する。
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲のいろの みどりいろ
眼うるめる 面長き女
たちあらはれて 消えてゆく
たちあらはれて 消えゆけば
うれひに沈み しとしとと
畠の上に 落ちてゐる
はてしもしれず 落ちてゐる
お太鼓叩いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
お太鼓叩いて 笛吹いて
遊んでゐれば 雨が降る
櫺子の外に 雨が降る
六月の雨が家屋のトタン屋根を叩きます。亡き児の霊がお太鼓叩いて、笛を吹いて、そして雨は降ります。
中也は詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託して死んだ。昭和12年10月22日、享年30歳。小林は友として翌年これを刊行する。
またひとしきり 午前の雨が
菖蒲のいろの みどりいろ
眼うるめる 面長き女
たちあらはれて 消えてゆく
たちあらはれて 消えゆけば
うれひに沈み しとしとと
畠の上に 落ちてゐる
はてしもしれず 落ちてゐる
お太鼓叩いて 笛吹いて
あどけない子が 日曜日
畳の上で 遊びます
お太鼓叩いて 笛吹いて
遊んでゐれば 雨が降る
櫺子の外に 雨が降る
六月の雨が家屋のトタン屋根を叩きます。亡き児の霊がお太鼓叩いて、笛を吹いて、そして雨は降ります。
2011年1月3日月曜日
「少年時」 私は生きてゐた!
黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆しのようだつた。
麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた・・・・・・
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた・・・・・・
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!
庭の地面が、朱色に睡つてゐた。
地平の果に蒸気が立つて、
世の亡ぶ、兆しのようだつた。
麦田には風が低く打ち、
おぼろで、灰色だつた。
翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
田の面を過ぎる、昔の巨人の姿――
夏の日の午(ひる)過ぎ時刻
誰彼の午睡(ひるね)するとき、
私は野原を走つて行つた・・・・・・
私は希望を唇に噛みつぶして
私はギロギロする目で諦めてゐた・・・・・・
噫(ああ)、生きてゐた、私は生きてゐた!
弟洽三の死④「梅雨と弟」
死と向かい合わせの現実。ときにそれは私小説のように・・・
毎日々々雨がふります
去年の今頃梅の実を持つて遊んだ弟は
去年の秋に亡くなつて
今年の梅雨にはゐませんのです
お母さまが おつしやいました
また今年も梅酒をこさはうね
そしたら来年の夏も飲物があるからね
あたしはお答へしませんでした
弟のことを思い出してゐましたので
去年梅酒をこしらふ時には
あたしがお手伝ひをしてゐますと
弟が来て梅を放つたり随分と邪魔をしました
あたしはにらんでやりましたが
あんなことをしなければよかつたと
今ではそれを悔やんでをります・・・・・・
毎日々々雨がふります
去年の今頃梅の実を持つて遊んだ弟は
去年の秋に亡くなつて
今年の梅雨にはゐませんのです
お母さまが おつしやいました
また今年も梅酒をこさはうね
そしたら来年の夏も飲物があるからね
あたしはお答へしませんでした
弟のことを思い出してゐましたので
去年梅酒をこしらふ時には
あたしがお手伝ひをしてゐますと
弟が来て梅を放つたり随分と邪魔をしました
あたしはにらんでやりましたが
あんなことをしなければよかつたと
今ではそれを悔やんでをります・・・・・・
弟洽三の死③「死別の翌日」
死と向かい合わせの現実。ときにそれは私小説のように・・・
生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ
物云いたげな瞳を床にさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。
さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳り(かげり)、片側は日射しをうけて、あつたかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。
空は昨日までの雨に拭はれて、すがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。
その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然(ぼうぜん)として、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。
生きのこるものはづうづうしく、
死にゆくものはその清純さを漂はせ
物云いたげな瞳を床にさまよはすだけで、
親を離れ、兄弟を離れ、
最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。
さて、今日は良いお天気です。
街の片側は翳り(かげり)、片側は日射しをうけて、あつたかい
けざやかにもわびしい秋の午前です。
空は昨日までの雨に拭はれて、すがすがしく、
それは海の方まで続いてゐることが分ります。
その空をみながら、また街の中をみながら、
歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
みたばかりの死に茫然(ぼうぜん)として、
卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。
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