小林秀雄と泰子の同棲は、泰子が原因で半年で終わる。もともと家事が苦手らしい泰子は、潔癖性がひどくなったため、家でなにもしないでじっと暗い部屋に座り込み小林の帰りを待っていた。思い通りにならないと錯乱状態になる。
ある夜、自制心をなくした泰子は、小林に「出て行け」と叫ぶ。夜中の2時、小林は身ひとつで出て行く。泰子にはそれが意外に思えたほど、徹底的に小林に甘えていた。
「もともと好きでたまらなくて、中原と一緒に住んでいたんじゃありません。置いてやるというから、私はなんとなく同居人として住まわせてもらっていたんだから、中原と別れて行くときも、身につまされるものはありませんでした」と泰子は語っている。
そうとは知らぬ中也は喜んだ。
大正15年(昭和元年)4月中原中也は日本大学予科に入学(9月に退学)、大岡昇平が京都帝国大学に入学したため、中也は長谷川泰子を伴って京都へ出かけたが、泰子と最後までうまくいかなかった。昭和3年、泰子は24歳、中也の反対を押し切り松竹蒲田撮影所に入社、松竹キネマの女優となる。昭和5年、演出家山川幸世との間に望まない子どもが生まれると、中也は茂樹と名付け、かわいがった。27歳のとき、東京名映画鑑賞会が募集した「グレタ・ガルボに似た女性」に応募し、1等になったが、長谷川泰子は女優として成功はしなかった。
昭和8年12月3日、中也は、故郷で遠縁に当たる上野孝子と見合いし湯田の西村屋で結婚式をあげた。翌年長男文也誕生する。
昭和11年、泰子は石炭商の富豪中垣竹之助と結婚した。同年11月、愛息文也が急死。中也は子供の死にショックを受け、精神が不安定になる。翌年10月 - 故郷に移住の予定であったが、結核性脳膜炎を発症し、同22日に30年の命を閉じる。
後日談。
泰子は、戦時中も田園調布の屋敷から千葉までタクシーでゴルフに行く生活を楽しんだ。「私はあまりによい環境のなかに入ると、いつでも潔癖性が頭をもたげます。」敗戦直後、その潔癖症がもとで中垣と別居して世界救世教に入信してしまう。
57歳でビル管理人になっていた。
その長谷川泰子のもとを、ある日、中也の弟・思郎が訪ねてくる。
「あんたも落ちるところまで落ちたね」
即座に泰子はいった。「とんでもない。私はいままで本当に働いたことがなかったけど、働きながら自分一人で生きていけるようになりました。それが、とってもすばらしいことのような気がするんです」
思郎は感心して「えらいこというね」といった。
ここで12年半働いたあと、ホテルの帳場に半年ほど座り、そののちはひとり静かに暮らしていたという。
昭和49年、70歳のとき、『ゆきてかえらぬ 中原中也との愛』を講談社から刊行。
平成5年、長谷川泰子は老人ホームで16年間を送り88歳の長寿を全うする。
茂樹について泰子は語っていない。
結婚した中垣は、茂樹も自分の子どもとして籍に入れるといったが、それまでどこの籍にも入っていなかったので、手続きが複雑で弁護士に処理させたという。
そんなところにも長谷川泰子の性質があらわれている。
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