僕は此の世の果てにゐた。
中原中也『ゆきてかへらぬ』から抜粋
1925年大正14年3月10日、中也は長谷川泰子とともに立命館中学の卒業式を待たずに上京している。16歳の中也と19歳の泰子は1923年、京都で知り合った。泰子は女優の卵でマキノ・プロダクションに所属。「日本のグレタ・ガルボ」とそやされた美女だった。中也が立命館中学在学中の翌年に、二人は同棲を始めている。
3月に上京して戸塚源兵衛町、中野と居を移し、友人の紹介で、小林秀雄と知りあった。同年五月小林のうちの近く、高円寺に移る。小林は母と一緒に杉並町馬橋に住んでいた。小林は当時23歳、一高を卒業して東京帝国大学仏文科へ入学したばかりの青年だった。
この辺のくだりは、泰子の自伝小説「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」に詳しい。
私たちが上京したのは、大正十四年三月でした。中原はそのとき、いちおう立命館中学を終えていたわけです。処分する道具なんかなかったから、そのまま東京にやって来ました。下宿をみつけるまで、数日間は鶴巻町の旅館に泊ったように覚えています。中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、八畳くらいの広さでした。……
間もなく私たちは中野へ引っ越しました。そこは一戸建ての独立家屋で、あの頃の貸家というのは、どこもみな同じようでしたけど、玄関が二畳ほどあって表が六畳、奥に四畳半、それに板間の台所がありました。南側の六畳の部屋には縁側がついていて、広い庭のある家でした。……中野に移っても、所在なさは変りません。そんなある日、それも急に雨が降りはじめた夕方でした。私は六畳の部屋から、雨にぬれた井戸のあたりをぼんやりとながめていたとき、その家でのはじめての訪問客がやって来たんです。その人は傘を持たず、濡れながら軒下に駆けこんで来て、私を見るなり、「奥さん、雑巾を貸してください」といいました。私はハッとして、その人を見ました。それまで、私は雨のふる光景を見て、感傷にふけっていたから、急には現実感をよびもどせません。その人は雨のなかから現われ出たような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。私は小林秀雄がはじめて訪ねて来た日のことを、こんなふうに覚えております。
…小林と知り合うと、中原はそのまま高円寺に引っ越すことを決めましたから、中野の家はほんのしばらくしかいませんでした。荷物がほとんどないから引つ越すのも気軽なんでしょう。机と少々の本、それに最低限の炊事道具。それを運んで高円寺に来たんですが、今度は二階で階段をあがって三畳、六畳と続いた部屋でした。……あれは七月のことでした、中原は郷里に帰って、いないときです。小林が一人でたずねて来ました。おそらく、小林にしてみれば、はじめは女がいるから、ちょっと行ってみょう、そんな気持だったと思うんです。きっかけというのはこういうものかもしれませんが、二人きりで話していると、何か妙な気分になりました。あのときは別にどうということもなかったけど、私はそれからときどき、中原に内緒で小林と会うようになったんです。「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」……私は小林の退院を待って、中原のところを去るつもりでした。それまでは中原に悪かったけど黙っておりました。いよいよになって、私はこういいました。「私は小林さんとこへ行くわ」もうそのときは、運送屋さんがリヤカーを持って、表で待っていたんです。あのとき、中原は奥の六畳で、なにか書きものをしておりました。そして、私のほうも向かないで、「フーン」といっただけなんです。私は荷物をまとめて、出て行きました。
10月、小林が盲腸炎で入院し、見舞いに行った泰子は再び口説かれ、11月遂に中也のもとを去り、小林と杉並町天沼で同棲を始めた。中也は泰子のリヤカーに同伴して小林の家に上がりこんで文学論を戦わせている。
翌年の大正15年(昭和元年)4月中原中也は日本大学予科に入学。この頃には、小林秀雄と長谷川泰子とは切れており、友人たちが京都帝国大学に入学したため、中也は泰子を連れて京都にむかっている。中也が泰子と寄りを戻そうと考えていたことは明白だが、中也の気持ちが「生きるか死ぬかだ」であったのに対して、泰子の方では、中也と疎遠になりたかった。
中原中也の長谷川泰子への想いは、純粋なる愛というものではありません。中也のエゴが作り出した執着(愛着)です。人間を束縛し、苦しみや悩みの原因というのは、「ひと(もしくは物)」そのものではなく、「ひと」への愛着なのです。それを手放すことによって得られる自由を拒否して、あくまでもしがみついて手放そうとしなければ、皮肉なもので、しがみついているもの自体を失うことになることを、身を持って、私たちに教えてくれているのです。
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