2010年12月14日火曜日

とも角も、私は口惜しかつた!

長谷川泰子に棄ておかれた。
棄てられたからこそ未練が残る、口惜しい。
いっそ、泰子を棄てられでもすれば中也のきもちも違ったであろう。
女など知らなかった男が、どうして泰子を棄てられよう。
母でさえ、棄てられない男が。
小林のもとに逃げた女の車を引いてやり、小林に皮肉でも言ってやりたいが…。

大正13年暮れ、立命館中学3年の中也は16歳。三つ年上の女優の卵に自作の詩を書いたノートを見せた。
「おもしろいじゃないの」長谷川泰子は片仮名の多い字面をそう感じて言った。
翌年4月、同棲がはじめる。
中也は「電球の入れ方も知らない」泰子に世話を焼き、詩ができると聞かせた。泰子は涙を流した。
大正14年3月、中也は早稲田大学予科を受験するため泰子とともに上京。泰子は芝居ができると希望をもつ。
同年4月、小林秀雄は東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同月富永太郎を通じて中原中也と出会う。
10月、小林が盲腸炎で入院。見舞いに行った泰子は再び口説かれ、「どっちにつくんだ」と迫られる。そして「私は小林さんとこへ行くわ」と中也のもとを去り、11月小林と杉並町天沼で同棲を始めた。中也は泰子のリヤカーに同伴して小林の家に上がり込んだ。


 私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない。私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くといふ日、実は私もその日家を変へたのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまふと、女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待つてゐる家まで届けてやつたりした。尤も、その男が私の親しい友であつたことゝ、私がその夕行かなければならなかつた停車場までの途中に、女の行く新しき男の家があつたことゝは、何かのために附けたして言つて置かう。
 私は恰度、その女に退屈してゐた時ではあつたし、といふよりもその女は男に何の夢想も仕事もさせないたちの女なので、大変困惑してゐた時なので、私は女が去つて行くのを内心喜びともしたのだつたが、いよいよ去ると決つた日以来、もう猛烈に悲しくなつた。
 もう十一月も終り頃だつたが、私が女の新しき家の玄関に例のワレ物の包みを置いた時、新しき男は茶色のドテラを着て、極端に俯いて次の間で新聞を読んでゐた。私が直ぐに引返さうとすると、女が少し遊んでゆけといふし、それに続いて新しき男が、一寸上れよと云ふから、私は上つたのであつた。
 それから私は何を云つたかよくは覚えてゐないが、兎も角新しき男に皮肉めいたことを喋舌つたことを覚えてゐる。すると女が私に目配せするのであつた、まるでまだ私の女であるかのやうに。すると私はムラムラするのだつた、何故といつて、――それではどうして、私を棄てる必要があつたのだ?
 私はさよならを云つて、冷えた靴を穿いた。まだ移つて来たばかしの家なので、玄関には電球がなかつた。私はその暗い玄関で、靴を穿いたのを覚えてゐる。次の間の光を肩にうけて、女だけが、私を見送りに出てゐた。
 靴を穿き終ると私は黙つて硝子張の格子戸を開た。空に、冴え冴えとした月と雲とが見えた。慌ててゐたので少ししか開かなかつた格子戸を、からだを横にして出る時に、女の顔が見えた。と、その時、私はさも悪漢らしい微笑をつくつてみせたことを思ひ出す。
 ――俺は、棄てられたのだ! 郊外の道が、シツトリ夜露に湿つてゐた。郊外電車の轍の音が、暗い、遠くの森の方でしてゐた。私は身慄ひした。
 停車場はそれから近くだつたのだが、とても直ぐ電車になぞ乗る気にはなれなかつたので、ともかく私は次の駅まで、開墾されたばかりの、野の中の道を歩くことにした。
 新しい、私の下宿に着いたのは、零時半だつた。二階に上ると、荷物が来てゐた。蒲団だけは今晩荷を解かなければならないと思ふことが、異常な落胆を呼び起すのであつた。そのホソビキのあの脳に昇る匂ひを、覚えてゐる。
 直ぐは蒲団の上に仰向きになれなくて、暫くは枕に肘を突いてゐたが、つらいことだつた。涙も出なかつた。仕方がないから聖書を出して読みはじめたのだが、何処を読んだのかチツトも記憶がない。なんと思つて聖書だけを取り出したのだつたか、今とあつては可笑しいくらゐだ。

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