2010年12月21日火曜日

湖 上

中也は長谷川泰子に恋焦がれていた。明るい月夜が湖上を照らし、そこにふたつの影が寄り添うように揺れていたなら、恋情を詩に表現することはなかった。中也の心にポッカリ穴があいたのだから…。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。
沖に出たらば暗いでせう、
櫂から滴垂(したた)る水の音は
ちかしいものに聞こえませう。
――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。
月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでせう。
あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

含羞 (はじらい)

――在りし日の歌――

なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ
秋 風白き日の山かげなりき
椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳(た)ちゐたり

枝々の 拱(く)みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかん(、、、、、、)のあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき

椎の枯葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳(た)ちゐたり
その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし

その日 その幹の隙(ひま) 睦みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
あゝ! 過ぎし日の 仄(ほの)燃えあざやぐをりをりは
わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ・・・・・・

2010年12月15日水曜日

長谷川泰子との決別

小林秀雄と泰子の同棲は、泰子が原因で半年で終わる。もともと家事が苦手らしい泰子は、潔癖性がひどくなったため、家でなにもしないでじっと暗い部屋に座り込み小林の帰りを待っていた。思い通りにならないと錯乱状態になる。
ある夜、自制心をなくした泰子は、小林に「出て行け」と叫ぶ。夜中の2時、小林は身ひとつで出て行く。泰子にはそれが意外に思えたほど、徹底的に小林に甘えていた。
「もともと好きでたまらなくて、中原と一緒に住んでいたんじゃありません。置いてやるというから、私はなんとなく同居人として住まわせてもらっていたんだから、中原と別れて行くときも、身につまされるものはありませんでした」と泰子は語っている。
そうとは知らぬ中也は喜んだ。
大正15年(昭和元年)4月中原中也は日本大学予科に入学(9月に退学)、大岡昇平が京都帝国大学に入学したため、中也は長谷川泰子を伴って京都へ出かけたが、泰子と最後までうまくいかなかった。昭和3年、泰子は24歳、中也の反対を押し切り松竹蒲田撮影所に入社、松竹キネマの女優となる。昭和5年、演出家山川幸世との間に望まない子どもが生まれると、中也は茂樹と名付け、かわいがった。27歳のとき、東京名映画鑑賞会が募集した「グレタ・ガルボに似た女性」に応募し、1等になったが、長谷川泰子は女優として成功はしなかった。
昭和8年12月3日、中也は、故郷で遠縁に当たる上野孝子と見合いし湯田の西村屋で結婚式をあげた。翌年長男文也誕生する。

昭和11年、泰子は石炭商の富豪中垣竹之助と結婚した。同年11月、愛息文也が急死。中也は子供の死にショックを受け、精神が不安定になる。翌年10月 - 故郷に移住の予定であったが、結核性脳膜炎を発症し、同22日に30年の命を閉じる。

後日談。
泰子は、戦時中も田園調布の屋敷から千葉までタクシーでゴルフに行く生活を楽しんだ。「私はあまりによい環境のなかに入ると、いつでも潔癖性が頭をもたげます。」敗戦直後、その潔癖症がもとで中垣と別居して世界救世教に入信してしまう。
57歳でビル管理人になっていた。
その長谷川泰子のもとを、ある日、中也の弟・思郎が訪ねてくる。
「あんたも落ちるところまで落ちたね」
即座に泰子はいった。「とんでもない。私はいままで本当に働いたことがなかったけど、働きながら自分一人で生きていけるようになりました。それが、とってもすばらしいことのような気がするんです」
思郎は感心して「えらいこというね」といった。
ここで12年半働いたあと、ホテルの帳場に半年ほど座り、そののちはひとり静かに暮らしていたという。
昭和49年、70歳のとき、『ゆきてかえらぬ 中原中也との愛』を講談社から刊行。
平成5年、長谷川泰子は老人ホームで16年間を送り88歳の長寿を全うする。
茂樹について泰子は語っていない。
結婚した中垣は、茂樹も自分の子どもとして籍に入れるといったが、それまでどこの籍にも入っていなかったので、手続きが複雑で弁護士に処理させたという。
そんなところにも長谷川泰子の性質があらわれている。

2010年12月14日火曜日

とも角も、私は口惜しかつた!

長谷川泰子に棄ておかれた。
棄てられたからこそ未練が残る、口惜しい。
いっそ、泰子を棄てられでもすれば中也のきもちも違ったであろう。
女など知らなかった男が、どうして泰子を棄てられよう。
母でさえ、棄てられない男が。
小林のもとに逃げた女の車を引いてやり、小林に皮肉でも言ってやりたいが…。

大正13年暮れ、立命館中学3年の中也は16歳。三つ年上の女優の卵に自作の詩を書いたノートを見せた。
「おもしろいじゃないの」長谷川泰子は片仮名の多い字面をそう感じて言った。
翌年4月、同棲がはじめる。
中也は「電球の入れ方も知らない」泰子に世話を焼き、詩ができると聞かせた。泰子は涙を流した。
大正14年3月、中也は早稲田大学予科を受験するため泰子とともに上京。泰子は芝居ができると希望をもつ。
同年4月、小林秀雄は東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同月富永太郎を通じて中原中也と出会う。
10月、小林が盲腸炎で入院。見舞いに行った泰子は再び口説かれ、「どっちにつくんだ」と迫られる。そして「私は小林さんとこへ行くわ」と中也のもとを去り、11月小林と杉並町天沼で同棲を始めた。中也は泰子のリヤカーに同伴して小林の家に上がり込んだ。


 私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない。私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くといふ日、実は私もその日家を変へたのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまふと、女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待つてゐる家まで届けてやつたりした。尤も、その男が私の親しい友であつたことゝ、私がその夕行かなければならなかつた停車場までの途中に、女の行く新しき男の家があつたことゝは、何かのために附けたして言つて置かう。
 私は恰度、その女に退屈してゐた時ではあつたし、といふよりもその女は男に何の夢想も仕事もさせないたちの女なので、大変困惑してゐた時なので、私は女が去つて行くのを内心喜びともしたのだつたが、いよいよ去ると決つた日以来、もう猛烈に悲しくなつた。
 もう十一月も終り頃だつたが、私が女の新しき家の玄関に例のワレ物の包みを置いた時、新しき男は茶色のドテラを着て、極端に俯いて次の間で新聞を読んでゐた。私が直ぐに引返さうとすると、女が少し遊んでゆけといふし、それに続いて新しき男が、一寸上れよと云ふから、私は上つたのであつた。
 それから私は何を云つたかよくは覚えてゐないが、兎も角新しき男に皮肉めいたことを喋舌つたことを覚えてゐる。すると女が私に目配せするのであつた、まるでまだ私の女であるかのやうに。すると私はムラムラするのだつた、何故といつて、――それではどうして、私を棄てる必要があつたのだ?
 私はさよならを云つて、冷えた靴を穿いた。まだ移つて来たばかしの家なので、玄関には電球がなかつた。私はその暗い玄関で、靴を穿いたのを覚えてゐる。次の間の光を肩にうけて、女だけが、私を見送りに出てゐた。
 靴を穿き終ると私は黙つて硝子張の格子戸を開た。空に、冴え冴えとした月と雲とが見えた。慌ててゐたので少ししか開かなかつた格子戸を、からだを横にして出る時に、女の顔が見えた。と、その時、私はさも悪漢らしい微笑をつくつてみせたことを思ひ出す。
 ――俺は、棄てられたのだ! 郊外の道が、シツトリ夜露に湿つてゐた。郊外電車の轍の音が、暗い、遠くの森の方でしてゐた。私は身慄ひした。
 停車場はそれから近くだつたのだが、とても直ぐ電車になぞ乗る気にはなれなかつたので、ともかく私は次の駅まで、開墾されたばかりの、野の中の道を歩くことにした。
 新しい、私の下宿に着いたのは、零時半だつた。二階に上ると、荷物が来てゐた。蒲団だけは今晩荷を解かなければならないと思ふことが、異常な落胆を呼び起すのであつた。そのホソビキのあの脳に昇る匂ひを、覚えてゐる。
 直ぐは蒲団の上に仰向きになれなくて、暫くは枕に肘を突いてゐたが、つらいことだつた。涙も出なかつた。仕方がないから聖書を出して読みはじめたのだが、何処を読んだのかチツトも記憶がない。なんと思つて聖書だけを取り出したのだつたか、今とあつては可笑しいくらゐだ。

2010年12月12日日曜日

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ
ヌツクと出た、骨の尖。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐ってゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある。
と思へばなんとも可笑しい。

ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて
見てゐるのは、――僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。

『死んだ中原』小林秀雄

  君の詩は自分の死に顔が
  わかつて了つた男の詩のやうであつた
  ホラ、ホラ、これが僕の骨
  と歌つたことさへあつたつけ

  僕の見た君の骨は
  鉄板の上で赤くなり、ボウボウと音をたててゐた
  君が見たといふ君の骨は
  立札ほどの高さに白々と、とんがつてゐたさうな

  ほのか乍ら確かに君の屍臭を嗅いではみたが
  言ふに言われぬ君の額の冷たさに触つてはみたが
  たうたう最後の灰の塊りを竹箸の先で積もつてはみたが
  この僕に一体何が納得出来ただろう

  夕空に赤茶けた雲が流れ去り
  見窄らしい谷間ひに夜気が迫り
  ポンポン蒸気が行く様な
  君の焼ける音が丘の方から降りて来て
  僕は止むなく隠坊の娘やむく犬どもの
  生きてゐるのを確かめるやうな様子であつた

  あゝ、死んだ中原
  僕にどんなお別れの言葉がいえようか
  君に取り返しのつかぬ事をして了つたあの日から
  僕は君を慰める一切の言葉をうつちやつた

  あゝ、死んだ中原
  例へばあの赤茶けた雲に乗って行け
  何んの不思議な事があるものか
  僕達が見て来たあの悪夢に比べれば

未刊詩篇 『はるかぜ』

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
     空は曇つてはなぐもり、
     風のすこしく荒い日に。

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
     部屋にゐるのは憂鬱で、
     出掛けるあてもみつからぬ。

あゝ、家が建つ家が建つ。
僕の家ではないけれど。
     鉋(かんな)の音は春風に、
     散つて名残はとめませぬ。

     風吹く今日の春の日に、
     あゝ、家が建つ家が建つ。

2010年12月1日水曜日

僕は此の世の果てにゐた。

僕は此の世の果てにゐた。

中原中也『ゆきてかへらぬ』から抜粋

1925年大正14年3月10日、中也は長谷川泰子とともに立命館中学の卒業式を待たずに上京している。16歳の中也と19歳の泰子は1923年、京都で知り合った。泰子は女優の卵でマキノ・プロダクションに所属。「日本のグレタ・ガルボ」とそやされた美女だった。中也が立命館中学在学中の翌年に、二人は同棲を始めている。

3月に上京して戸塚源兵衛町、中野と居を移し、友人の紹介で、小林秀雄と知りあった。同年五月小林のうちの近く、高円寺に移る。小林は母と一緒に杉並町馬橋に住んでいた。小林は当時23歳、一高を卒業して東京帝国大学仏文科へ入学したばかりの青年だった。

この辺のくだりは、泰子の自伝小説「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」に詳しい。

私たちが上京したのは、大正十四年三月でした。中原はそのとき、いちおう立命館中学を終えていたわけです。処分する道具なんかなかったから、そのまま東京にやって来ました。下宿をみつけるまで、数日間は鶴巻町の旅館に泊ったように覚えています。中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、八畳くらいの広さでした。……

間もなく私たちは中野へ引っ越しました。そこは一戸建ての独立家屋で、あの頃の貸家というのは、どこもみな同じようでしたけど、玄関が二畳ほどあって表が六畳、奥に四畳半、それに板間の台所がありました。南側の六畳の部屋には縁側がついていて、広い庭のある家でした。……中野に移っても、所在なさは変りません。そんなある日、それも急に雨が降りはじめた夕方でした。私は六畳の部屋から、雨にぬれた井戸のあたりをぼんやりとながめていたとき、その家でのはじめての訪問客がやって来たんです。その人は傘を持たず、濡れながら軒下に駆けこんで来て、私を見るなり、「奥さん、雑巾を貸してください」といいました。私はハッとして、その人を見ました。それまで、私は雨のふる光景を見て、感傷にふけっていたから、急には現実感をよびもどせません。その人は雨のなかから現われ出たような感じでした。雨に濡れたその人は新鮮に思えました。私は小林秀雄がはじめて訪ねて来た日のことを、こんなふうに覚えております。
…小林と知り合うと、中原はそのまま高円寺に引っ越すことを決めましたから、中野の家はほんのしばらくしかいませんでした。荷物がほとんどないから引つ越すのも気軽なんでしょう。机と少々の本、それに最低限の炊事道具。それを運んで高円寺に来たんですが、今度は二階で階段をあがって三畳、六畳と続いた部屋でした。……あれは七月のことでした、中原は郷里に帰って、いないときです。小林が一人でたずねて来ました。おそらく、小林にしてみれば、はじめは女がいるから、ちょっと行ってみょう、そんな気持だったと思うんです。きっかけというのはこういうものかもしれませんが、二人きりで話していると、何か妙な気分になりました。あのときは別にどうということもなかったけど、私はそれからときどき、中原に内緒で小林と会うようになったんです。「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」……私は小林の退院を待って、中原のところを去るつもりでした。それまでは中原に悪かったけど黙っておりました。いよいよになって、私はこういいました。「私は小林さんとこへ行くわ」もうそのときは、運送屋さんがリヤカーを持って、表で待っていたんです。あのとき、中原は奥の六畳で、なにか書きものをしておりました。そして、私のほうも向かないで、「フーン」といっただけなんです。私は荷物をまとめて、出て行きました。

10月、小林が盲腸炎で入院し、見舞いに行った泰子は再び口説かれ、11月遂に中也のもとを去り、小林と杉並町天沼で同棲を始めた。中也は泰子のリヤカーに同伴して小林の家に上がりこんで文学論を戦わせている。
翌年の大正15年(昭和元年)4月中原中也は日本大学予科に入学。この頃には、小林秀雄と長谷川泰子とは切れており、友人たちが京都帝国大学に入学したため、中也は泰子を連れて京都にむかっている。中也が泰子と寄りを戻そうと考えていたことは明白だが、中也の気持ちが「生きるか死ぬかだ」であったのに対して、泰子の方では、中也と疎遠になりたかった。

中原中也の長谷川泰子への想いは、純粋なる愛というものではありません。中也のエゴが作り出した執着(愛着)です。人間を束縛し、苦しみや悩みの原因というのは、「ひと(もしくは物)」そのものではなく、「ひと」への愛着なのです。それを手放すことによって得られる自由を拒否して、あくまでもしがみついて手放そうとしなければ、皮肉なもので、しがみついているもの自体を失うことになることを、身を持って、私たちに教えてくれているのです。