2017年5月10日水曜日

寒い夜の自我像

泰子への思い、
自分に正直に生きられないことへの葛藤を
中也、願いをこめてうたう。

陽気で、坦々として、而も己を売らないことをと、
わが魂の願うことであった!

長谷川泰子という女性

中原中也は永井叔の紹介で長谷川泰子という女性に出会う。泰子はマキノプロダクションの大部屋女優のひとりで、中也と同じ広島女学院付属幼稚園にいたという奇遇でした。

ところで,中原に初めて出会ったのは、京都の表現座という小劇団の稽古場でした。俳優志望の私は、とにもかくにも新劇をやりたくて、勘当同然の身で郷里の広島から東京へ出たのですが、上京して一ヵ月、関東大震災に会い、身の置き場もなく京都へ逃げのびて表現座の一員になっていました。たしか劇団員になって間もなくのある日、中原は知人を頼ってそこに現れたように思います。大正十三年でしたから、私が二十歳、中原はまだ中学生で私よりも三つ年下だから、十七歳でした。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)

中原中也「ぼくの部屋に来ていてもいいよ」

考えてみれば思い切った向こうみずなことだったかもしれません。でも他にどうすることもできない私は、その親切心だけを信じて、そこへ移るしかなかったのです。その当時、中原の下宿は、京都の北野大将軍西町にありました。そこで私たち二人の奇妙な共同生活が始まったわけです。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)

そのように小林が出入りしている間に、自然と私は、中原に内緒で小林と会うようになったのです。内緒といいながら私のほうには別にどうという感情もなかったのですが、「あなたは中原とは思想があい、ぼくとは気があうのだ」と言われると、やはり心にわだかまっていたものが明らかになったようです。(長谷川泰子「中也・愛と訣れ」1976)

小林秀雄「一緒に住もう」

もともと好きでたまらなくて、中原と一緒に住んでいたんじゃありません。置いてやるというから、私はなんとなく同居人として住まわせてもらっていたんだから、中原と別れて行くときも、身につまされるものはありませんでした。(長谷川泰子「中原中也との愛―ゆきてかへらぬ」1974)



  こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
  私は強情だ。ゆうべもおまへと別れてのち、
  酒をのみ、弱い人に毒づいた。今朝
  目が覚めて、おまへのやさしさを思ひ出しながら
  私は私のけがらわしさを歎いてゐる、そして
  正体もなく、今茲(ここ)
に告白をする、恥もなく、
  品位もなく、かといって正直さもなく
  私は私の幻想に駆られて、狂ひ廻る。
  人の気持をみようとするやうなことはつひになく、
  こひ人よ、おまへがやさしくしてくれるのに、
  私は頑
(かたくな)
なで、子供のやうに我儘だつた!
  目が覚めて、宿酔
(ふつかよい)の厭(いと)
ふべき頭の中で、
  戸の外の、寒い朝らしい気配を感じながら
  私はおまへのやさしさを思ひ、また毒づいた人を思ひ出す。
  そしてもう、私はなんのことだか分からなく悲しく、
  今朝はもはや私がくだらない奴だと、自ら信ずる!


  無題 
  中原中也


小林秀雄が去った後の泰子は、中也らが『白痴群』を創刊すると同人のように会に顔を出しました。同人誌には小林佐規子の名で散文詩を発表しています。泰子にしてみれば頼る当てもなく、また小林秀雄への未練があったのでしょう。
泰子は中也に会えば、主人面をして色々指図する中也に腹を立て、二人は取っ組み合いの喧嘩をしたといいます。
1930年12月、松竹キネマの女優となっていた泰子と演出家の山川幸世との間に子供がうまれ、中原中也が名付け親となります。山川が左翼運動で地下組織に潜ると、泰子は金の無心のために仕方なく中也の四谷花園アパートを訪れていましたが、中也は未練たらしく泰子の世話を焼くのでした。
 
中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。(小林秀雄「中原中也の思い出」1949)