2010年11月28日日曜日

「冷酷の歌」にそえて

そして中也は、不完全な存在としてこの世を去ります。
小林秀雄は、「在りし日の歌」の刊行に突き動かされます。 それは秀雄の贖罪であり、不完全な才能を世に知らしめるために必要なことでした。

あゝ、死んだ中原
例へばあの赤茶けた雲に乗って行け
何んの不思議な事があるものか
僕達が見て来たあの悪夢に比べれば


わたしたちはたいてい、いまの自分を否定するクセがあります。だいたいの場合は、いまの人生が自分にとって望ましくないという完全主義からきた判断に左右されています。好きな人がいない、いまの仕事はほんとうに自分が望む仕事ではない、など不満にことかきません。

中也は幼少のころ神童といわれていました。わたしには、親の意志に完全に服従しなければならない子供の姿が浮かびます。子供にとって親は、神のように絶対的な存在です。両親の願うように生きようとするほど、自分自身であることができない葛藤にさいなまれます。親が人間として不完全な存在であること、宇宙に完全なるものが存在しないことを考えることは、神への冒涜であるかのようです。中也の歌には、そのヒントが隠されてるようにおもいます。

2010年11月27日土曜日

冷酷の歌

理由がどうあれ、人がなんと謂(い)へ、
悲しみが自分であり、自分が悲しみとなつた時、
人は思ひ出すだらう、その白けた面の上に
涙と微笑とを浮べながら、聖人たちの古い言葉を。


未刊詩篇 『冷酷の歌』 3より抜粋

2010年11月26日金曜日

冷酷の歌の前にごあいさつ

マイクロソフトのブログサービスが2011年3月期限で終了してしまいます。

おごれるひともひさしからず
ただはるのよのゆめのごとし
たけきものもついにはほろびぬ
ひとえにかぜのまえのちりにおなじ

そこで、マイクロソフト(平家)のブログを、グーグル(源氏)のブロガーに少しづつおひっこししようときめました。

中原中也の歌